RoyalBlueDK ロイヤルコペンハーゲン等のデンマークの陶磁器 www.royalbluedk.com
Philip Schou
Arnold Krog(アーノルト クロー)の功績は2004年から2005年にかけて、滋賀、東京、大阪、岡山で開催された年のロイヤルコペンハーゲン展でも紹介されてましたし、ある程度知られているように思いますが、このArnold
Krogを見出したフィリップ シャウ(Philip Schou)というおじさんも大変な功績を残しています。
この才能があり、謙虚かつ大胆で、経営者として優れ、人間味のあるおじさんが好きです。
これから少しずつ紹介しようかなと思います。
フィリップシャウ(1838-1922)は技術者で1863年に設立されたAluminiaという陶器工場を彼が30才の時、1868年から経営していました。
工業化が始まり、人々が都市で、コーヒーや紅茶を飲むなどの新しい生活スタイルが始まったことにより、ロイヤルコペンハーゲンやビングオーグレンダールが製造していた磁器よりも安い陶器を製造していました。
この時期、デンマークでは多くの陶器工場が立ち上がっています。 フィリップ
シャウは経営を引き継ぐとすぐにAluminiaは拡大すべしと判断して二つの工場をまとめて、コペンハーゲン郊外のフレデリクスバーグに大きな工場を建てました。
都市近郊での大衆向けの陶器の製造によりAluminiaは発展し、良好な経営状態となりました。
30才にして時代を読み、判断力があり、実行力に富んでいました。 彼はこの後、この判断力を活かして1882年
44才のとき、大胆な決断をします。
フィリップ シャウは1882年8月14日、300,000クローナでロイヤルコペンハーゲンの型、製品、設備を買いました。 1895年、ある銀行家はフィリップシャウにビングオーグレンダールを600,000クローナで買収する話を提示しています。 ロイヤルコペンハーゲンの土地までは買っていませんでしたし、ビングオーグレンダールの社長は高給を要求したりしてましたから、正確には比較できませんが、当時のロイヤルコペンハーゲンの価値は、ビングオーグレンダールよりも低かったようです。
この時期のクローネ(クローネは単数形、クローナは複数形)は0.268ドルです。 消費者物価指数から考えて、当時の1ドルは現在の120倍の価値がありますから、現在の日本円にして約10億円で買ったことになります。 安いんだか高いんだか分かりませんが、昔安田海上火災が買ったゴッホのひまわりが53億円ですから、ロイヤルコペンハーゲンはゴッホの一枚の絵よりも安いことになります。 大変な金額だと思いますが、これからのロイヤルコペンハーゲンの発展をみると、二束三文で買い上げたような、大変安い買い物だったということができると思います。
フィリップ シャウがロイヤルコペンハーゲンを買った当時、ロイヤルコペンハーゲンは、K/omagergadeからPilestraedeにかけてにひろがる土地と四つの建物をと持っていました。 当時まだコペンハーゲンは発展中だったと思いますが、これはコペンハーゲンの中心街にあり、日本で言えば銀座のど真ん中に工場がある感じです。 現在のスロイエにあるロイヤルコペンハーゲン本店の近くでした。 フローラデニカが保存されているローゼンボーの近くでもあります。 フィリップシャウが買う前に、ロイヤルコペンハーゲンは王室からG.A.Flackという商人に買い取られていました。 G.A.Flackは土地と建物だけはフィリップ シャウに売りませんでした。 なぜならば、G.A.Flackは、ロイヤルコペンハーゲンを売ると、建物を全部壊して、近代的なオフィス街を作るつもりだったからです。
G.A.Flackは予定通り、コペンハーゲンの中心に位置したロイヤルコペンハーゲンの敷地内の建物を全部壊して、オフィス街に造り変えてしまいました。 G.A.Flackは商人でしたから、高度な技術や、芸術的な才能を必要とする陶磁器メーカーの経営には興味がなかったのかもしれません。 コペンハーゲンの一等地に売れない陶磁器工場を持っているよりも、そこに、オフィス街を作ることのほうが、はるかに利益があったと思います。 フィリップ シャウは、他に工場を建てるしかなくなりますが、彼の陶磁器会社アルミニアにはなかった、陶器の製造技術を得たシャウは工場の建設に取り掛かります。
フィリップ シャウは工場をフレデリクスバーグのアルミニアの工場に隣接して建てることにしました。 陶器に必要な高温を作り出す窯は全く新しいもので、ショウ自身が設計しました。 忘れてしまいそうですが、彼はもともとは実業家ではなく技術者でありました。 アルミニアの経営、ロイヤルコペンハーゲンの買収などに何年も多忙な日々を送っていたと思われますが、まだ最新鋭の技術を理解し、自分のアイデアを持って設計できるほどの力を持っていたのです。 そして、いよいよ1884年4月からこの新しい近代的な工場で陶器を作り始めました。 この工場は2004年9月16日、グロストロップに移転するまで続きますから、120年続いたことになります。 当時最新鋭のピカピカの工場は、現在、いかにも歴史を感じさせる趣のある建物になって、ロイヤルコペンハーゲンの博物館(ウェルカムセンター)になっています。 そこには貴重な品々が展示され、絵付けの実演を見ることができ、世界各国から多くの人が訪れています。
ショウは工場は立て直しましたが、Flackは工場だけでなく、そこにあったショールームも壊してしまったので、新しいショールームもどこかに作らなければなりませんでした。
フレデリクスバーグのロイヤルコペンハーゲン旧工場

旧ショールームは、旧工場の近くにあり、当時でも最高の店や、本屋があった場所でした。 現在のコペンハーゲン駅前から、ニューハウンにかけての大歩行者天国ストロイエは、19世紀にコペンハーゲンは大きく発展し、アマトゥー広場はその中心にありました。 そこに、1884年、ショウは店をオープンしました。 これが現在のロイヤルコペンハーゲン本店です。

GEORG JENENの隣にある茶色い建物がロイヤルコペンハーゲン
歴史を感じます。
ここで気になるのは、アルミニアの経営者シャウはロイヤルコペンハーゲンの設備や型を買いましたが、建物や土地はFlackが保有したままでした。 契約の内容は分かりませんが、設備や型を買ったことだけで、大衆向け陶器工場のアルミニアがロイヤルコペンハーゲンを名乗るのは難しかったのではないでしょうか。 しかし、時のクリスチャン9世の個人的な好意によりロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen Porcelain Manufactory) の名称の使用が許可されました。 Flackは全くやる気無しで、Flackに任せていたら衰退するのは明らかでしたし、建物も壊してしまったので、シャウに使わせることに誰も異存はなかったのでしょう。 シャウはロイヤルコペンハーゲンの名称を得ても、アルミニアの製品にはアルミニアのスタンプを押していて、アルミニアのブランド自体は1963年まで並行して存在しました。 しかし、一部の製品では同じ型に、アルミニアのスタンプがあるものと、ロイヤルコペンハーゲンのスタンプがあるものもあります。 以前所有していた、天使のフィギュリンは、ロイヤルコペンハーゲンのスタンプでしたが、アルミニアのスタンプがあるものも見かけました。 ここから、ロイヤルコペンハーゲンの大発展が始まります。
シャウは、ブルーフルートやブルーフラワー、フローラデニカを引継ぎました。 しかし、それだけでなく、彼はデンマーク独自の目のさめるような何かが必要だと感じていました。 彼自身もアルミニアでは素晴らしい作品を残したデザイナーでもありましたが、結局彼は、新しい才能が必要だと気づいたのです。 彼は自分を客観的に見ることができました。 シャウのように才能があって、成功している人物が、一人よがりにならないということは珍しいことだと思います。
自らの限界を感じ新しい才能を求めて美術部門の責任者を探していたフィリップ シャウでしたが、いつのまにか、工業業界の議長になっていました。 そのため、顔が広く、ツテには困らず、その道の有名人とコンタクトすることも可能でしたが、これという人をなかなか見つけることができませんでした。 ペインターのThorvald Nissという人に頼みましたが、Nissはその仕事に関心を示しませんでした。 たまたまそのやりとりを聞いていた木版師のF. Hendriksenが、面白い奴がいるよと30才になったばかりの若者を紹介しました。 それが、アーノルト クローだったのです。
Hendriksenによると、アーノルト クローは、芸術に関する幅広い知識を持った若者で、シャウの求めている姿にあっているように思え、すぐに自ら会いに行きました。 アーノルト クローは建築家で陶器を扱った経験がありませんでしたが、三ヶ月、働かせて様子を見たあと、1885年1月1日に、いきなりArtistic Leader、アートディレクターとして採用しました。 アートディレクターは、どのようなデザインのものを製造するか決定する上で非常に重要な役割を果たしていました。 しかし、アーノルト クローは、重要な任務を、全く陶器を扱った経験がなく、陶器デザインでは無名の30才の若者を登用しました。 それは非常に大胆な決断だったといえると思います。
現在アーノルト クローは有名です。 「アーノルト クロー」でGoogleで検索すると、たくさん検索されます。 しかし、フィリップ シャウで検索してもRoyalBlueDKぐらいしかでてこないはずです。 フィリップ シャウあってのアーノルトクローなのですが。
1888年に、コペンハーゲンでThe Nordic Exhibition of Industory, Agriculture and Art(工業、農業、芸術北欧博覧会)という大規模な展示会を開くことが1885年の夏に決定し、フィリップ シャウはその工業部門の副会長になりました。 彼は、ロイヤルコペンハーゲンの宣伝によい機会だと思い準備に力を入れました。 陶磁器を知らないアーノルト クローに勉強させるため、ロンドンやアントワープに一緒に行ったりしています。 そして、アーノルト クローは、すぐにブルーフルートを復興させ、ブルーフルートの品目を増やし、大成功して、シャウの信頼を得ました。 そして、クローのアイデアで1888年、ついにシャウはThe Nordic Exhibitionに望んだのです。
1888年のコペンハーゲンの展示会で、ロイヤルコペンハーゲンの製品は、入り口のすぐ近くの正面に展示させることができました。シャウの意気込みからして工業部門の副会長という地位を活かして一番よい場所を確保したのではないでしょうか。 シャウは人気のアーノルト クローが復興させたブルーフルートを誇らしげに展示しましたが、クローの新しいアイデアの製品については、まだどのような反響があるか分からなかったので、酷評されても打撃を受けないように、ひっそりと展示されました。 シャウにとって、自信と不安の入り混じる、失敗の許されない勝負をかけた展示会だったのでした。
コペンハーゲンの展示会の準備はシャウにとって大仕事でした。 彼は事実上委員会長で、彼こそが推進役だったのです。 展示会が始まると、大物やヨーロッパの王室の誰かが来た時には、いつも会場にいて、陶磁器のところでちゃっかり休ませて、よく見るようにしむけました。 会期の途中で50歳の誕生日と銀婚式を迎えました。 インフルエンザで倒れたりもしました。 そして、展示会が大成功で終わったとき、彼は大満足だったのでしょう、展示会の建物のドームの上にあった旗ざおをもらってきて、自分の庭に立ててしまいました。 なんとなく自分の庭に立っている旗ざおを見てニヤニヤしているシャウが想像できます。
コペンハーゲンの大展示会を終えたシャウには、翌年のパリ万博が待っていました。 コペンハーゲンの展示会は、パリ万博のよい予行練習となりましたし、パリ万博までの間にいろいろなことが試みられました。 その試みの中でアンダーグレーズ品は、光沢があるので魚、カニ、濡れた水仙の葉の上のカエルやトカゲなどが作られました。 "Royal Copenhagen Porceralin 1775-2000"でロイヤルコペンハーゲン美術館長Steen Nottlemannは、これがアンダーグレーズ品のフィギュリンの始まりとしています。
1888年のコペンハーゲンの展覧会で、実はシャウはアーノルトクローの新しい手法を用いた作品に自信がなく、失敗してもよいように、控えめに展示していましたが、評判がよかったので安心したのか、翌年のパリ万博では堂々と展示しました。 そしてロイヤルコペンハーゲンはパリ万博でグランプリを受賞し、またもや大成功でした。 アーノルトクローが用いた新しい手法とは、現在有名なイヤープレートで用いられている手法と同じく、全体を青いコバルトに浸したあと、白くしたい部分を削り取って幻想時な絵を描く手法です。 この手法で見事に陶磁器に絵を書くことに成功しました。
シャウがこの手法を用いた製品に懐疑的だったのは、コペンハーゲンの展示会で控えめに提出したことによっても伺い知れますが、後にこの手法の最も優秀なペインターと喧嘩して追い出しています。 追い出されたペインター(F.A.Hallin)はビングオーグレンダールに1895年に行って、この手法を用いてお皿を作りました。これがビングオーグレンダール初のイヤープレートです。 ロイヤルコペンハーゲンは手法こそ早く生み出したものの、イヤープレートの販売ではビングオーグレンダールに先をこされてしまったのです。
1889年のパリ万博の成功により、ロイヤルコペンハーゲンはロンドンとニューヨークに直営店を開きました。 ニューヨークのティファニーを通じて販売するなど、世界的に売り込むことができるようになりました。 1885年にアーノルトクローはブルーフルーテッドを復興させ、プレーン、ハーフレース、フルレースを設定しました。 ハーフレースはアメリカ市場むけに生み出されたものとされています。 アーノルト・クローはナイトの称号を得て、シャウはクリスチャン9世から直々に国会議員の肩書きを得ました。
シャウ自身は、アーノルト・クローの新しい手法の実験的な作品には懐疑的でしたが、わざと高い値段をつけて上流階級や王室に売り込み、成功しました。 シャウは自分では理解できないものを扱える不思議な才能を持っていました。 自分の芸術的なセンスを押し殺して、客観的にマーケットをつかみ、ロイヤルコペンハーゲンの名声を高めることに成功していきます。
しかし、まだ彼には強力なライバルがいたのです。
フィリップ シャウは、他の陶器工場を見て、仲良くするのが大好きでしたが、そうしているうちに、ビングオーグレンダールと競うのは大変難しいということが分かりました。
そこに1891年にはある銀行の取締役から合併話が持ち込まれましたが、相違点がありすぎてまとまりませんでした。
しかし、1895年に懲りない銀行家はフィリップ シャウに600,000クローネでビングオーグレンダールを買わないかと持ちかけてきました。
条件はビングオーグレンダールの社長を年俸12,000クローネで取締役として雇うことでした。
これはシャウが1882年にロイヤルコペンハーゲンを買った値段の倍の値段に相当します。
現在価値では約20億円です。 また、ビングオーグレンダールの社長の年俸は4000万円です。
現在価値に置き換えることは難しいですが、現代のライブドアの堀江社長によるニッポン放送株買収騒動と比べるとかなり少ない金額です。
しかし高いと感じたのか、今後ビングオーグレンダールに勝てると思ったのか、ビングオーグレンダールの社長が嫌いだったのか、シャウはこれを拒否しました。
実際にビングオーグレンダールをロイヤルコペンハーゲンを買ったのは、1987年、約100年後のことでした。
ちなみにこの話をもちこんだ銀行は当時北欧最大の銀行でしたが1922年に不況で倒産しました。
フィリップ シャウはビングオーグレンダールを買いませんでした。 フィリップ シャウは、もともと陶磁器作成の技術者で、真に価値のある良いものを作り、できるだけ多くの人に知ってもらい、その価値を認めてもらうために、心血を注いできました。 彼が本当にやりたかったことは磁器製造を独占することではありませんでした。 シャウは、ビングオーグレンダールが強力なライバルであることは認識していましたが、すでにロイヤルコペンハーゲンと同様に良いものを作っていたビングオーグレンダールを買収して、楽にビジネスを進めるということは彼の目的ではなかったと思います。
ビングオーグレンダールはビングとグレンダールの二人によって作られました。 グレンダールはロイヤルコペンハーゲンのフィギュリンを作っていましたが、ビングは商人でした。 シャウは買いませんでしたが、ビングはビングオーグレンダールを売ろうとしました。 シャウはいくらつまれてもロイヤルコペンハーゲンを売らなかったはずです。 そのビングとシャウがうまくいくはずがありません。 二人は根本的に違う価値観を持っていたと思います。
シャウがビングを高給で雇う契約でビングオーグレンダールを買わなかったのは賢明なことだったと思います。 ビングオーグレンダールとロイヤルコペンハーゲンは競いながらお互いに成長していくことになります。
1902年、シャウは64歳の時、とうとう引退を決意します。 44歳でロイヤルコペンハーゲンを買ってから20年の歳月が流れていました。 この20年間はロイヤルコペンハーゲンにとって、すべてが始まったといってよい、重要な期間でした。 アーノルト クローとともに、ブルーフルーテッドを復興させ、アンダーグレーズ技法を確立し、展覧会、博覧会に全力を注ぎ、技術力をアピールし、知名度を上げました。 アンダーグレーズのフィギュリンも始まりました。 彼がいなかったら、今日のロイヤルコペンハーゲンは無かったでしょう。
当時のデンマークの男性の平均寿命が52.9歳ですから、十分すぎるほど働いたといえます。 また、彼は1922年 84歳で亡くなりました。
驚異的な長寿でした。
ロイヤルコペンハーゲン美術館長のノットルマン氏は、「つねにシャウを尊敬していたアノルート・クローが、シャウの引退とともに古き良き時代が去っていったとかんじたことは明らかであった。」とロイヤルコペンハーゲン展のカタログに「アーノルト・クローの生涯と芸術」に書いています。 アーノルト クローはシャウが去ったあとは、ロイヤルコペハーゲンでブラブラ過ごし、1916年 60歳で引退して1931年75歳で亡くなっています。